2005年12月08日

ラジオ体操化石化プロジェクト8

で体幹の側屈について記したが、まだ説明不足なところがあるので補足。

なぜ体を倒してはいけないのか?

ラジオ体操の側屈は体を横に倒しておこなう。そうすると股関節で大幅に曲がってしまい、脇腹の筋肉が伸びにくいことは述べた。しかし「体を倒さない」というのはもう一つ重要なポイントがある。それは自力抵抗運動をどこで生じさせるかという問題である。

ラジオ体操の場合、体側運動に限らず全て浅層筋(体の外側、皮膚に近いところにある筋肉)同志が引き合う形になる。それに対し、で述べたような方法だと、浅層筋と深層筋の自力抵抗運動を起こすことが出来る。

ラジオ体操の要領で体を左に倒した場合、確かに右の脇腹には引っ張られた感じがある。ではこれをゴムのように一気に収縮させることは可能か?否である。重たい頭部は運動の支点からはるか遠い先に落ちているため、これを素早く持ち上げることは出来ない。鈍重な等速性の運動が初動となってしまう。

しかし上半身を右にずらせるような動きだと、伸びたゴムを一気に解き放つような力を発揮することが出来る。これは体の外側の筋肉をできるだけ固定させて、背骨に近い筋肉でこれに抵抗することで、力の「ため」を生じさせているからだ。固めた外側に対して内側から力を込めているため、支点から作用点までの距離が、ラジオ体操のときよりずっと近いのがわかる。「筋肉を動かさずに骨を動かせ」とよく言われるのはここだ。

これは筋力を出来るだけ用いずに体重移動でことをなすのに無くてはならない方法である。
タグ:ラジオ体操
posted by 院主です at 22:37| 大阪 ☔| Comment(2) | TrackBack(1) | 運動を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

自在感を得させよう

またこちらの記事から。

「子供びいる」というのが評判になっているのは聞いていたが、“子供プロテイン”まで売られているとは知らなかった。スポーツ後の真面目な「プロテイン」より、無邪気な物マネで飲む「びいる」のほうが、まともと感じる人間が多数派であって欲しい。

イチローが小学生時代に大好きな沢庵を食べ過ぎ、全身黄色に染って、ぶっ倒れたことは有名だが、サプリメントやプロテインを摂っていたとは聞いていない。まず、「筋肉をつける」などという意識が、小学生時代にはなかったろう。彼が小学生時代に得た最大の宝は、「筋肉そのもの」より「筋肉の使い方」である。筋力はその過程で自然についてきた。

一流のスポーツマンで筋肉隆々というのは意外に少ない。最もそれっぽい格闘技の世界でも、頂点にいる選手は、見るからに筋肉質というより、一見普通で柔軟な印象を与えるものが多い。(五味隆典とか特にそうだ)

逆にプロ野球の世界で、ヘンな筋肉ばかりつけすぎておかしくなった有名選手の例がある。(そう、あの人です)

プロの話はともかく日本の青少年スポーツの指導には、異常さを感じる話が多い。こちらで言ったような、頭の悪い練習方法を強制するスポーツ指導者がなぜ日本に多いか考えてみた。

1、自分のしてきたこと以上の方法を知らない。無知と新しい知識を取り入れることへの怠慢。
2、取り入れようとしても理解が出来ない。
3、苦しい練習をすれば、心身ともに強くなると本気で思い込んでいる。

表面的にはこういった理由だが、実際はもう少し根が深い。
無知、怠慢、能力不足、思い込み以前に、目的意識の問題がある。
「何のために自分は子供にスポーツを教えているのか?」という問いかけを真面目にしたことが無いのだ。もちろん3のような指導者は、「将来にわたって何事にも強い人間にさせるため」と胸を張って答えるだろう。しかしこれは根拠の無い思い込みである。超人的な猛練習を乗り越えた人間が、意思の弱さから犯罪に手を染めて身を持ち崩すケースもよく聞く。逆もまたしかりで、体育など出来なかった人が、常人の想像を超える意志の強さを見せることも多い。

「強い」というのは「耐えられる」ことをいうのではなく、「適応できる」ことをいうのではないか。スポーツで身につくものには力だけではなく「ワザ」がある。「ワザ」は状況に対する適応方法のことをいう。何か「ワザ」が出来た時、「脳」はその分だけ発達している。体育の指導者は「脳」の指導者であるべきなのだ。

自転車に乗れた瞬間の感動を大人になっても忘れていない人間は幸福だ。人間の幸福とはあの感動の中にある。目で見たこと、頭で思ったことを、自在に実現できたとき感じる快感は高等な動物にしかない。「自在感」という言葉があまり使われないのが残念である。今の教育者は「自由」や「達成感」という言葉をよく使うが、その前にこの「自在感」についてもう少し考えたほうがいい。

そういう意味で言うと、算数も国語も(外国語も)美術も音楽も、この自在感を出来るだけ経験させることが、少なくとも初等教育では最も重要な義務なのではないだろうか。
タグ:自在感
posted by 院主です at 00:06| 大阪 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月23日

江戸時代のUMA

最近暇なとき読んでいる本が「北越雪譜」
古本屋にて640円で入手。面白いです。先ず最初に雪や雨の話があって、この時代の一般的な天体論や気象学が語られるんだけど、今の科学から見て、かなりイイ線いっているのだ。元ネタは三才図会のような中国伝来の知識なので、天人合一論の話をそのままのせているようなところもあるけど、わかりやすいところがいい。

しかし特に興味深いのは、北越独特の「ほふり」「ほふら」のような現象が説明されていてるところである。「ほふり」というと「証券保管振替機構」と思われそうだけど違う。「屠る」とも意味に関連はなさそうだ。雪害の一つで雪崩とよく似ているが全く違う。淡雪の積もった山の上から、石などの芯になるものが転がり落ちて雪玉になり、巨大なものとなることをいう。ひどい時には、何十人もの人を押しつぶして死なせてしまうくらいになるらしい。こういうことが実際あるのか?よくわからないけど興味がわいてくる。

いわゆる「雪男」によく似た話もある。異獣といわれたこの大男は気の良いヤツだったらしく、おにぎり一個あげただけで、頼んでもいないのに荷物を軽々と背負ってくれて、飛ぶように山道を走ったそうな。平易な古文なのに、かえってリアルな印象を受けるから不思議だ。

まだ古文を習っていない中一の長女でも読めている。それくらい簡単なのだが、ああいう本は中学や高校の国語の授業では取り上げられもしないのが残念だ。竹取物語や平家物語のような辞書無しでは一行も進まないような作品が先に出てきて、みんなげんなりするのだな。

まあ、しかし北越雪譜を面白がって読む学生も少ないか。でも、せめて古典の授業では「自分が読める作品」「興味を持った作品」を一つくらい探す時間を与えて欲しいと思う。断言する。古文は読んでおけばいつか必ず役に立つ。ものすごく些細なことではあるかもしれないけれど…


posted by 院主です at 00:24| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月09日

文化の日に寄せて(遅すぎ)

子供の頃、何度聞いても意味のわからない言葉があった。それは

「文化」

中学や高校で習った日本国憲法24条に、「健康で文化的な生活を云々」とあるのが、いつまでも気になった。

文化とは何か?実のところ今でも答がよくわからないこの問いを、私がはじめてに口にしたのは小学生の頃だった。運動会の日である。学校のそれではない。そのころ学校とは別に地区が催す運動会があって、出ると子供はみんな参加賞がもらえたのだが、これの一つに奇妙な名前のものがあったのだ。

「文化箱」

もしかしたら記憶違いで、「文化入れ」だったか「文化立て」だったかもしれないが、要するにモノは“ただの筆立て”に「文化」がついてただけだ。プラスチック製で白地に原色の花模様がプリントしてあったのを憶えている。

プラスチックが文化なのか、どぎつい薔薇の絵が文化なのか、鉛筆を入れるから文化なのか?

親は答えた。「何でも文化ってつけたら良さそうに思われるからでしょ。文化住宅とかね、文化包丁とか意味はないけど、新しいものにつけた時代があったのよ」

文化の意味はわからなかったが、“ブンカ”の使い方は少しわかった気がした。言われてみると文化箱の柄は、子供の目にも何となく古くさく垢抜けないもののような気がした。

電気ブランという酒があって、あれは「電気」と銘打つだけで「新しい」「ハイカラ」といった感じが出せた大正時代のものなわけだが、その「電気」の後釜が「文化」だった。

今日桐さんのブログを見て私は初めて知ったことに、木造二階建てのアパートを「文化住宅」というのは関西限定だったというのがある。40年近く大阪に住んでいて、「文化住宅」とは日本中ああいうものだと思い込んでいた。検索して調べると、関東で「文化住宅」というと大正末期から昭和初期にできた、主にサラリーマン向けの和洋折衷一戸建て住宅のことらしい。新宿歴史博物館

どちらの住まいが本当に文化的かなどというアホな話はやめよう。

それより「電気」が「文化」にかわり、その後は何が使われたか、考えてみるけど浮かんでこない。電気製品や栄養補助食品のような限られた分野だと、そういうのはよくある。マイコン制御(マイクロコンピュータだよ!)がファジー機能(どこへ行った?)になったりとか、何でもかんでもタウリン配合だったのが、DHC配合、いや次はコエンザイムといっった感じである。これらはモノの流行であって「ブンカ」や「デンキ」とは違うけど、実際のところ「ファジー」も「DHC」も何やわからんけど飛びついていたのが現状であって、同じようなものではないかと思う。

と、ここまで考えてわかった。文化の後にあらわれた、大衆の心をつかむコトバがあった。私が生業にしながら、できるだけ使わないように心がけているこの言葉だ。

「健康」


posted by 院主です at 23:41| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月26日

ラジオ体操化石化プロジェクト 7

胸郭(実際は骨盤も一緒に)を変形させる動作は、古武術ブーム(といっても関心があるのはかなり一部の人)で一躍注目された。甲野善紀さんが井桁術理として紹介し、ナンバというキーワードで一部の体育指導者の間に関心を持たれている。

この動作は何をやるときでも必要になるもので、こんな風に指摘される前から、もちろん“やる人はやっていた”。上級者の野球のバッティング、テニスのスイングなどを見ればよくわかる。右打ちの場合、打つ前には体重を右足に寄せ、左の肋間を縮める。回旋と共に左側腹を一気に弛緩伸展させ、同時に体重は左足へ移動する。この動作を側屈なしに回旋動作だけですると、うまくいかないばかりか様々な傷害の元となる。回旋よりも胸郭の側屈による上体の水平スライドを意識することで、素早くスムーズに力まないで動作を終了することが出来る。

ボールや人を追ったり、攻撃をかわしたりするために、体を左右に移動する際も、この動きをよく使う。足で地面を蹴るのではなく体重移動でスタートするには、上体が真横に滑っていった方がやりやすい。

胸郭・骨盤の変形をより応用したものに「ナンバ歩き(走り)」があるが、巷間で多く行われている練習法には「少々難あり」の感を私個人は抱いている。自分自身試してやって見て、参考になったところは多くあるのも事実だが、やや不自然な遠回りがありそうなのは気になる。

ナンバをはじめとして、歩行法に関しては、私のような半端者から、体育研究・指導、武術、舞踊などで一線にいる実践家までが、入り乱れて論争をしている最中である。治療家としては、相手ごとにその体型体質にマッチした最適な歩行法を見つけていきたい。まだ完成されていない分野で、やり甲斐のある作業といえる。
タグ:ラジオ体操
posted by 院主です at 09:04| 大阪 | Comment(2) | TrackBack(0) | 運動を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

ラジオ体操化石化プロジェクト 6

久しぶりです、ラジオ体操。


「体を横に曲げる体操」というのがある。こちらである。

この真横への動きも他の体操と同じく、日常動作でもスポーツでも見かけることのない不自然な動きではあるが、ストレッチとしては必要な要素も入っている。主たる目的であるらしい「わき腹の筋肉を伸ばす」は結構なことだ。ただしやるなら音楽に合わせてやるより、二人一組になって横に並び、手を組み軽く伸ばしあいをするほうが良い。上になっている手はタオルなどを介して引っ張り、体のどこにも痛みを感じないように行なう。

〜曲がっているようで曲がっていない体側〜
中学時代にこの体操を「体側の運動」と習った。体側だから体の側面、特に胴体の横を曲げるのが目的のはずだが、実はこの体操ではあまり胴体は曲がっていない。曲がっているようで曲がっていない。曲がっているのは股関節が中心。胸郭はそのままの形である。にもかかわらず、13種の体操のうち横の動きはこれしか無い。そこが実に問題なのだ。(第2体操にも一つあるが本質的に何も変わりがない)

「胸郭を曲げる」といわれて「そんなもん曲げられるかい!」と言われることがある。しかしそう言った人でも、じつは曲げたことがあるのだ。単に意識していないだけである。

日本人は、意識的に胸郭を曲げたポーズを、好んで芸術に用いてきた。金剛力士像や歌舞伎の見得を切る姿を思い浮かべたいただけると良い。あのマネをしてみた時に、左右の肋骨に独特な感覚を得られると思う。下方へ腕を伸ばした方の肋骨は、クシャッと押しつぶしたバネ。腕を上に掲げた方の肋骨は、逆に伸ばしたバネのようになっている。あのような動きこそ、「体を横に曲げる体操」と言っていい。

あれが何の役に立つのか?それは次回以降にお待ち下さい。
タグ:ラジオ体操
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2005年10月17日

去るべき人々がどれくらいいるのか

数日しか経ってないのに、マスコミではもう忘れられようとしているニュースがある。少年野球の監督が、試合に負けた「ペナルティ」として無意味な猛練習をさせ、一人の中学生を死に至らせたあの事件である。

この監督は「いつもやっている練習だった」と言ってたが、私にはこれが一番恐ろしかった。スポーツ、体育、教育の世界から完全に去るべき人である。

こういう練習を見ながら止められなかった保護者が何人もいたようだ。彼らの心理的な立場が、どのようなものであったかよくわからない。しかし反省するべき点を自らはっきりさせることは、亡くなった少年に対する最低限の義務だ。

近頃は科学的な知識を熱心に取り込んで、良質の練習を施す努力をしている監督、コーチが多くなっている。しかし一方では監督とは文字通り名ばかりのオッサンが、あそこまでではなくともまだいて、親は当惑しながらも口をつぐんで子供をそこに預ける構図が、そこかしこにあるようだ。何もこれは野球だけに限ったことではないし、またスポーツの世界だけの話でもない。勉強の教え間違いで死を招くようなことはないが、良い生き方を遠ざけることはある。対岸の火事と構えていてはいかんのだ。
posted by 院主です at 23:09| 大阪 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

台湾のアロマテラピー

SPA香草魔法學苑
魔法という言い方、「同病相憐倶楽部」というストレートな表現など、見ているといろいろ面白い。
posted by 院主です at 23:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月14日

大発見か?!2

この絵文字の発見で、白川静先生の研究成果に対し疑問符が突きつけられることも、ひょっとしたらあるんじゃないかというような書き方をしたが、実のところ裏付けが補強される可能性のほうが高いんではないかと思っている。ただしそう思っているのは、我々のようなファンの方であって、あれぐらい偉い人になると、自分の今までの成果なんかより、早く現物が見たい、真実を知りたいという欲求の方が強いんだろうなと想像もする。(多分世界一強い)

今後研究が進むにつれ、漢字の成立が祭祀や呪術に係るものであるという認識が、より一層広まるかもしれない。そうなったら小学生向きの漢字教本にも、殷時代の宗教観や習慣が同時に憶えられるようなおまけが付くようになるのだろうか。そうなったら面白い。もちろん白川学説を小学生にわかるように説明するのは、かなり工夫がいるだろうと思う。しかし早くから漢字の本質に少しでも近づくことで、今まで我々が持ち得なかった世界観を持つ子も現れるかもしれない。漢検で一級を取るよりも、漢字を作った人々の意識に迫ることの方が、素敵な作業に決まっている。


いずれにせよ「安の字は、家で女性が家事をしていると家が平安になることからきている」なんていう説明を続けていっていい理由はない。安の上部は家ではなく祖廟であり、嫁に入った女性が先祖を祀る形を意味しているという。冷静に考えれば、女が家事をして家が安まるなどというのは、それが当たり前の時代であれば字にはしないことが想像つく。また文字を作る階層の家ならば、家事など奴隷がしていたはずだ。「女が家に」は孔子以降の見方だろう。殷時代は今の我々がイメージしている“昔”とは全然違うのだ。

「常用字解」は中高生にも読めるように編集されたらしい。しかし読んでいる学生は少ないだろう。今は治療所においてあるけど、明日あたりにこっそり子供部屋において様子を見るつもりだ。いつか興味を持ってくれたらうれしい。そういえば、うちの中学校の図書室には備えているんだろうか。無かったら即刻入れさせないかん。

posted by 院主です at 01:36| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ニュースを読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月12日

大発見か?!

接続障害なんかがあって、しばらく更新していなかったけど、この大ニュースに触れずにはおれないので、ラジオ体操は一休み。

「甲骨文字の数千年前」中国最古?絵文字発見
おおっと、大変なもんが見つかったなと、実に驚いている。私は鍼灸の仕事をしているが、治療のバックボーンはいわゆる古典派というか、伝統派というか、そっち系の人間なので、普通の人よりちょっと漢字と付き合いが深い。こっちにも書いたように、白川静先生の常用字解を文字通り常に用いて、経穴(ツボのこと)の意味を調べたりしている。

なぜ経穴の意味を調べるのに使うかといえば、現在の字義では今一つ意味がわからない名前のものが数多くあるからだ。古代の人がどんな治療に、どんな考えを持ってその部位に手を触れたかを知るには、その当時に通っていた漢字の意味を知る必要がある。

経穴の成立時期は不明で、全てが同じ時代に出来たものでもない。現存する医書で最も古い素問に書かれている経穴が、前漢よりはるか以前から伝えられたものである可能性もある。だからその可能性も踏まえて、説文解字のバイアスがかかっていない、文字の考証を参考にしていたのだ。(説文解字は後漢時代、許慎によって書かれたもので、文字の成立についての記載があるが、すべて秦の篆文をもとに書かれたものであり、白川静先生によればその解釈にはコジツケたようなものが多いという。しかし我々が小学校などで習った文字の成り立ちは、この説文解字を原点にしたものであるし、今でも多くの漢字辞書がこの域を出ていないのではないだろうか。)

しかし今回の発見は、白川先生が研究していた金文や甲骨文字より、さらに古い時代のものという。内容によっては、また認識を改めなくてはならない事態もある。楽しみでもあり、怖いようでもある。

いつかの石器みたいに「捏造でした」とかは無しにして欲しいな。
posted by 院主です at 00:00| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ニュースを読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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