2013年02月18日

体罰問題は能力論を中心に論じて欲しい

「桜ノ宮高校の事件以降、世間は体罰を一斉に否定するようになりましたね」

そう言う人がいますが、ちょっと甘いなと思います。

私はテレビを見てないけど、どんな論調かは想像がつくし、体罰必要論を今この時に声高に唱える奴は少ないでしょう。しかし、マスコミから視線を外してよく見れば、一般人の間では考えが特別変わった人は少ないのが現実なはずです。

暴力を受けて自分が成長したと思い込んでいる人は、こんな事件で考えを変えたりはしません。自殺した生徒に問題があるとまず考えます。大津のイジメ事件ではマスコミ全社が決してやらなかった遺族批判みたいなことを、おそらく橋下が嫌いという理由だけで堂々と記事にした雑誌を味方に、「やっぱり先生は悪くないやん」と叫びたい気持ちになっています。ついでに言いますと、連日続々と報道されている暴力的指導者の皆さんは、言葉の上ではどうかはわかりませんが、ホントのところは反省何ぞしとらんのと違いますかな。

「実績もあって感謝もされている自分が何で今さら責められる?」

これはこれで当然の気持ちではないですか。

人は自分を否定されたくありません。特に「あなたは正しくない」と言われることには命がけで抵抗しようとします。年齢を重ねるほど、それは強い。年寄りに多い人種差別、団塊世代に多いアナーキズムや空想的平和主義が、どれだけ馬鹿にされても治らないのを見てもわかります。

暴力を受け成長し、それを肯定的に捉えて、それをまた伝えようとする人たちに「君は正しくない」と言えば言うほど、反発されるだけに終わることが考えられます。

では、どうすればいいのか?

「あなたがたは他の方法を知らなかった」と言うべきなのです。教師は殴らなくても指導できる方法を知らなかった。だから「良い大人」になった生徒もそんな殴る以外の素晴らしい方法を知らずに育った。

倫理の問題を放置しておけというのではありません。もう一つの側面である指導能力の問題の方が、早急に解決する必要もあるからです。能力がついてこなければ、結果を求められる限りどんなに間違っているとわかっていても暴力に頼るようになるからです。

暴力は間違っていると言うのは簡単で、誰にでも出来ますが、暴力より効果的な指導が何か説くのは専門家でも難しい。その難しい事を避けてきたから、こうなった。

一連の体罰問題は暴力をふるった当事者だけに責任があるのではないということになります。「体罰はいけない」とか「時によって必要」とか、ときに平行線になりがちな論議ばかりに陥っていた両側に問題があります。さして世に発言力を持たぬ我々も含めた大人全体の責任であると、新聞に目をやる度に考えざるを得ません。
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2013年01月29日

体罰という言葉は適当か?

桜ノ宮高校の事件以来、教育機関での「体罰」関連ニュースが毎日のように新聞に載りますが、いろんな意味で違和感を感じています。

まず「体罰」という言葉の使い方に最も大きな疑問を感じているのは、私だけではないでしょう。罰という以上、何かしらの悪行なり違法行為、規則違反に対する報いであるべきですが、今回のような事例ではそういうことで暴力を受けたのではありません。

2005年にこんな事件があり、当ブログでも取り上げました。
去るべき人々がどれくらいいるのか
事件の経緯は以下のサイトに詳しくあります。
ある野球少年の熱中症死亡事故事件(京都第一法律事務所)

試合に負けて、なぜペナルティが下りるのか?これに疑問を持たない人間がまだいたことに震撼としたものですが、7年たっても現状はあまり変わってないらしい。

「試合に負けた」のは監督にもコーチにも責任があります。「努力が足らない」とか「キャプテンとして自覚が足らない」という主観も一方的なものである可能性が常にあります。何にせよ不正を働いたわけではない。こういう理由で暴力をふるうのを「体罰」と呼べるのでしょうか?暴力依存的指導または単に暴力依存と呼ぶべきです。体罰と暴力依存を区別しないでごっちゃに語られるため、まともな論議さえできていないような気がします。

私は本来の意味での体罰でも、法律的なことを言えば禁止ということで良いとは思いますが、いかなる場合でも行為者が処罰の対象とされるものとは考えていません。親子間、教師生徒間という人間同士の付き合いの中でどんな状況が生じるか、すべて予想できるものでもなく、程度はあるにしろ何かしらの実力行為が必要とされることもあるでしょう。もちろん罰を受けた人間も、それに納得をしていることが条件です。これに比べると暴力依存的指導は、たとえ生徒が納得していてもするべきではありません。むしろその方が怖い。「あの先生の暴力によって自分は強くなれた」という思い込みが、次の世代に連鎖していくからです。

体罰に線引きが必要という声がありますが、本来の意味での体罰なら、先に述べたように事前に線引きなど出来るわけがありません。起きてしまってからしか、その是非はわからないのです。しかし体罰と暴力依存ははっきり線引きが可能です。暴力依存は限りなく犯罪に近いものと考えた方がいい。

橋下市長の決定には概ね賛成ですが、この人は極めて近い過去に、文脈上で体罰ではなく暴力依存的指導の方をはっきり肯定した珍しい政治家です。一応反省は口にしているようですが、彼にもかなりの責任があるではないでしょうか。

暴力のすべてを否定するのも極論でしょうが、目的さえポジティブなものであれば容易に暴力を肯定する方がはるかに害悪が大きい。これを放置し過ぎてきたということは、市長だけでなく我々大人全員恥じるべきです。

私自身、高校時代に自殺した青年と似たような経験がありました。私の場合は逃亡が出来たけど、彼にはその選択が出来なかった。なぜ出来なかったのか、それを個人の問題だけに決してしてはなりません。

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2010年06月07日

○○力低下の本当の原因

学力低下の原因は何か…ここ数年見るのがいやになるほど、日本中あちこちで叫ばれてきた犯人探し。

私がこれだと考えている真の原因が、意外にも巷間で議論されていないので極論という批判覚悟で申し上げます。

学力低下の真の原因、それは「便利になりすぎたこと」です。学力だけではありません、体力、運動能力、器用さ、コミュニケーション能力、すべて最近低下が懸念されているものの、第一原因として取り上げたく思います。

自家用車の普及や交通網の発達で、子供の歩く時間が奪われるように、「自分の力」を代行する機器や手段の出現で、否応なしに努力させられる機会があまりに減りました。

遊びも自分で工夫する余地のまったくない電子ゲームが席巻するようになってから、子供の創造性は下がる一方になっているようです。

我々の一世代上の方たちは不便な生活のなかで、当然のように家事をこなし、遊びも自らの体と手で自在に生み出す力を得て、日本の二次産業を急成長させました。そのあと我々同世代の人間になると結構便利になって、遊び道具はたいがい店で買う時代になりましたが、まだ外で体を動かす遊びができたし、屋内ではルール変更が可能なアナログ盤上ゲームで頭を使うコミュニケーションができました。その中で、優秀な人間は実体験をもと独自の二次元世界を展開して、世界の先端を走るようになっています。

いま残っているのは出来上がってしまったものだけです。

情報入手の不便さを解消するために携帯電話を開発、普及させたのは悪いことではありません。しかし思い出してみてください。学生のころ女の子(女性なら男の子)の家に電話をする時、「親父が出てきたら…」「ママさんが出てきたら…」緊張しながら軽くシミュレーションして電話口に立ったことはないでしょうか?国語のテストで敬語の問題が解けないやつでも、それは何とかしようとしてました。

今は誰にも邪魔されずに、好きな時間に好きな相手に言葉をおくることができます。一見幸せなことのようですが、やはり成長の機会を奪っている気がします。礼儀作法を実践する回数は確実に減りますし、同級生の親との予期せぬ接触による不測の事態は、あとで考えると得がたい経験でもあったことが多いものです。

不便さの復活を唱えても今は愚痴くらいにしか聞こえないかもしれません。しかし少なくとも、今の「便利が生み出した不便」に自覚を持たない限り、教育の再生は家庭にも教育機関にも無理であると、私は確信しています。


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タグ:学力低下
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2009年09月23日

新しい社会科教育5

私の住むところでは、小中学校に2学期制が導入されてまして、シルバーウィーク最後の今日が、前学期期末試験前日となっております。

そんなこともあり、またちょっと地理の教科書を覗いてました。

世界の気候区分とか、日本の気候、季節とか、そういうところが、試験範囲になっていたんですな。懐かしいです、呪文のように覚えた何たら性気候とか、どこどこ気団とか。

あれはしかし、結構難しい。だって科学の分野ですもん。中学なら理科Uというやつ。科学的な観点からだと、丸暗記でなく考えて納得しながら覚える教科になります。台風がなぜ生まれるか、梅雨はなぜ北海道にないかとか。

まあ、今は社会科と理科の時間で2回やってるようなものですから、その分よく覚えられるはずなんですが…

こういうのが得意な人は少ないですね。私も含めてですが。
タグ:社会科教育
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2009年08月10日

新しい社会科教育4

現役の高校の先生にこの社会科新案を話してみました。理系担当で担任は持っていませんが、クラブ活動を通し多くの立派な生徒を社会に送った尊敬できる教育者です。

「たぶん、公民を理解できる年齢を15歳と考えていると思う。あれくらいの年齢の2年差はものすごく大きいからね。」

やっぱりそうかなあ。そんな気もするけど、もっと教え方を変えて、自分の立ち位置から社会に向けて広げるような方法をとれば可能でしょう?っと私は食い下がる。

「それなら力のある教師でないと無理だわ。生徒とそういう話が出来る関係性を持てる人でないとね。地理とかならそうでなくても出来るから、今のやり方なんだと思う」

いやいや、そんな関係性がもてないなら、地理やったって歴史やったって大したことないじゃないですか。

「まあ、そうなんだけど。もしかしたら文科省がわざとわかり難くさせてるのかも知れないしなあ。」

愚民化政策なわけです。私も実はちょっと思ってます。てっ、これは邪推とか下衆の勘繰りであって欲しいけど。

ついでに一つ言い忘れたことをここで。

数学の先生でいい先生というのは、40人に一つ問題を出したら40人全員が同じ解を出させられる先生なわけです。解法とか考え方は別にしても、解は一つです。

では公民なら、これは逆の結果を導く先生がいい先生と言えるのではないかいなと、思うわけです。最低限基本的な現状を理解した上で、40人がすこしずつ違う考えを持つようになって授業成功なんでしょう。民主主義も人権思想も平和主義も、また自由経済も、環境保護も1+1=2のように正しいわけではないことを、教師生徒両者とも前提としてやってくれればなあ、そんな風に思います。
タグ:社会科教育
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2009年08月01日

新しい社会科教育3

「地理はひたすら覚える以外に勉強法がない。暗記科目だ。」よく言われます。私も中学、高校ではそう思って毛嫌いしていました。しかし大人になった今はそうでないことがわかっています。国や大陸や島を個別に覚えるのではなく、隣り合う国々の関係性から、自分のいる日本の実情と結びつけることが出来れば、いやでも頭に入ることもあるのです。

そうなるには、まず自分の国のことがわからなければなりません。国の形態、政治制度、産業、経済を一通り知る必要があるでしょう。それなら公民の授業が何より先に来なければいけない。

ただこれを実行するとなると、いろいろ問題が出てくることは予想できます。皆様からコメントにより、ご指摘などが頂ければうれしく思います。

えっ?本当?!地図に隠れた日本の謎 (じっぴコンパクト) [新書] / 浅井 建爾 (著); 実業之日本社 (刊)


読むだけですっきりわかる日本地理 (宝島SUGOI文庫) [文庫] / 後藤 武士 (著); 宝島社 (刊)
タグ:社会科教育
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新しい社会化教育2

今日、市立図書館に行ったついでに、社会科教育について書かれた本がないか調べてみました。少ないですねえ。司書の方は書庫から古い本を引っ張って下さいましたが、求めているものとは違いました。「社会科教育」でググってみると、真面目な論説はたくさん出てきます。大きく2種類に分かれるようです。体験学習の効果を検証したり、地域の文化や活動を取り入れた学習の様子など、部分的な指導方法についてのものです。もう一つは歴史認識や国家観に見られるイデオロギー絡みの文です。

なぜゆえ「教える順序」という最も大事な点について、もっと議論がなされていないのか不思議です。地理、歴史、公民という流れはそんなにも合理性があるのでしょうか?

地理から始める理由は、青少年の認識能力の成長過程に対する一種の思い込みからきているのではないでしょうか。

一番わかりやすい目に見える世界から始め

時間を軸にしたストーリーを与え

抽象的思考が要る社会構造への把握をうながす。

この方法が向いている生徒がいないとは思いません。しかし決して多数派ではないでしょう。私自身は歴史と公民の授業は好きでしたが、地理の授業は苦痛でした。全てにわたって「半分意味がわからないまま暗記をする」作業が強いられているような気がしていたのです。

中一の時の担任の先生は社会科の先生で、生徒に教えることは好きだったようで、普段はべらんめぇ調なのが、授業になるとアナウンサーのように標準語でとうとうと語り続けました。印象に残っているのは授業の内容ではなく次の言葉です。

「君たちの年齢ならば異性に興味を持つのと同じくらい、社会に対して関心を持ってもいいはずなのだが、なぜそんなに興味が薄いのだ?」
本当に不思議そうに仰ってました。

遠く離れたどこかの国の気候区分や「主な産業」が、隣のクラスにいる髪のきれいな女の子と同じくらい気になるとは、とても思えませんでした。しかし、これが地理の時間でなかったら、あるいは政治や歴史のことを把握した上で習っている地理の時間であれば、もうちょっと共感したかもしれません。

ガキ時代の私の実感はさておき、なぜ地理から入るとまずいのか、次回も話を進めていきます。
タグ:社会科教育
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2009年07月30日

新しい社会科教育1

教育の専門家でもない者が、おいそれと簡単に語るのはおこがましいと認めつつ、ご一考頂きたくここに愚見を提示するものでございます。

中学生になったばかりの長男が、地理の教科書を見ながら夏休みの宿題をやっておりました。我々の中学時代と同じ、一年生の社会は地理なのです。一年で地理、二年で歴史、三年で公民、何十年と変わっていない方式です。

ちらっと覗いた地理の教科書16ページ、「…それでは国とはどのような条件を満たすところなのでしょうか。国は領土・国民・主権(政府)という三つの条件を満たす必要があります。」云々と。

いやあ、これは何とも厳しいですなあ。領土ってどんな風に決まるんでしょうか?国民と国ではどちらが先に「ある」のでしょうか?主権って何ですか?

大人も答えにくそうな質問が子供からたくさん出てきそうです。いや、出てくればいいんだけど、普通はさらっと丸暗記でいっちゃうことが多いんでしょう。どれだけの生徒がこの一文から国というものを把握できるのでしょうか。もちろん、教科書に載っている文は、最低限度のガイドラインであり、ここに先生が指導要領に従い、また先生独自の判断も加えながら指導していくことは承知しています。ただ地理の授業である以上は、こういう説明に多くの時間を割けないことも事実です。

中学の社会科が消化不良になりがちなのは、小学校で学ぶ社会科の内容が貧弱すぎるせいかも知れません。6年までにもっとやっておけばいいという意見もあるでしょう。しかし中学の時期というのは、本来社会に対する関心がより高まるタイミングであり、たくさんの知識を持たせることは理にかなっているとされています。

それならばこそ、社会科の教育は、体系として覚えやすく、関心を引くように大いに工夫をする必要があるはずです。

生徒が自分の居る現実の環境から出発して、その成立の過程を探求するような形で公民と歴史の一部を教えることは可能かと思います。

中学の社会科は公民から出発し、歴史につなぎ、地理と同時進行する方法をとるべきではないかと考えているのです。なので歴史の教育は現代から過去へ遡って教える方式をとることになります。

あまりに今までと違う方法になってしまいますが、日本のどこかで同じような考えの社会科の先生が、いるんではないかと考えています。もしいらっしゃったらご一報ください。
タグ:社会科教育
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2008年11月15日

忍びがたきこと

NHKの長寿番組となりつつある「忍たま乱太郎」

私も子供が小さいときはよく見たり、本も借りたりしてました。元作者は尼子騒兵衛さんという人ですが、作品がアニメ化されてまもなくのころ、激怒されたことがあるというのを、新聞のインタビュー記事で読んだことがあります。

乱太郎の友達「きり丸」の好きな“小銭”が寛永通宝だったからです。「時は戦国ということになっています。500円玉みたいに子供でもわかるギャグはいいんです。」

昨日テレビでShinobiが放映されていたんで、このことを思い出したんですな。

 奇想天外というより無茶苦茶といったほうがいい忍術と、ありえないストーリーこそはこの作品の持ち味ですから、目くじらを立てるようなものではありません。私が気にくわなかったは一点だけ。物語の中で出てきた手紙が現代仮名遣いであったことです。

これは困る。もうあれだけで台無し。「そんなものなくてもB級以下じゃん」とか言うのは、まあ好き好きの問題です。風太郎ワールドを映像化すれば、あれは結構よく出来ているものと考えてもいい。

変幻自在の殺人糸とか、目を合わしただけで人を殺める術なんていうのは、どこにもない「夢の世界」です。戦国でも江戸時代でも、現代であっても誰も見たことがないんですから、やりたい放題で結構なわけです。

現代仮名遣いは、今の世界に厳然とあって、昔には絶対にない。「伝心の術」が出てきても、電信技術は出てきません。あの手紙は衣装の袖から、腕時計が覗いていたのと同じです。

あれだけのものを作るんですから、やっぱりみんなで話し合ったと思うんですがねえ…どうしてでしょうか。私だったら絶対旧かなにして、その上で達筆すぎて読めない文字にしてもらいますけどなあ。
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2006年11月24日

変形将棋

4年生の長男が学校のクラブ活動に将棋を選んだのがきっかけで、ネットを使って将棋のページを調べたことがあります。とりあえずウィキペディアで検索してみたのですが、これが予想以上に面白く、次々と出てくる情報に時間のたつのを忘れました。

驚いたのは「トリビアの泉」でも紹介された、平安大将棋や大大将棋のような大型の古将棋の駒の詳細が、すべて克明に記されていることです。まあ、これは多分一生やりたいと思わないでしょうから、一度見て感心するだけのものですが、変形将棋の項には面白いものがたくさんあります。息子が気に入ったのは五五将棋。詰め将棋の練習にいいかもしれません。

とにかく情報量の多さはウィキペディアならではです。例えば変形将棋の中に四人将棋というのがあります。ここでは島根県平田市長が考案した実際の四人将棋以外にも、「こち亀」で漫画のストーリー中、おそらく一度だけだと思うのですが、良さん以下4人で将棋をしたときの駒の並べ方までが紹介されてあります。

子供の前でネットを使ってものを調べることに、私は抵抗があるのですが、カテゴリによっては大いに役立つことを認めざるをえませんでした。
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2006年03月02日

高校生意識調査

公私ともにいろいろあって、随分長く放置したままになっていました。久しぶりの更新です。

おそらく教育関係または教育の関心のある人のあいだでは、今日はもう偽メールより金メダルより、この日米中韓高校生意識調査に関しての話題が多くなっていることでしょう。といっても、新聞の記事の内容は「またか」というか、聞き飽きたというか、とにかく読まなくてもわかるような話ばかりです。日本の若者が無気力なんてことは今に始まったことではありません。私が子供の頃は五無主義なんぞと揶揄されてましたな。五無とは、無関心、無気力、無責任、無感動、無作法のことでした。これの何年か前は最初の三つで三無主義と言われたらしい。だから今の子供が昨今の「ゆとり教育」や不況のために将来の夢を失っているなどというのは、ちょっと違います。

今の高校生の親というのは、私より少しだけ上の世代が多いですから、三無主義とバカにされた人たちです。(怒らないで下さい。こっちは二つ多いのです。)

そういう親がどうやって子供に夢を与える教育をするのでしょうか。想像するに三無主義者を育てた昭和一桁世代の人たちは、物心ついてから戦中戦後の混乱期を乗り越えておられるわけで、夢や希望や努力ということを、芯から知っているはずなのに、それでも子供たちになると無気力だ、無関心だといわれたのです。

私はもちろん今の子供の生活や意識のありかたには問題があると思っています。社会に対する感心の低さなどは、国民全体で考えるべき問題でしょう。しかしそれ以外で、今回のアンケートの数字そのものには、大して悲観をしていません。例えば「リーダーシップの強い生徒になりたい」が15,7パーセントとかいうのは、意外に多かったと感じているくらいです。他の国と比べれば確かに少ない。しかし考えてみてください。アメリカや中韓の高校生は、二人に一人以上が「自分はリーダーになりたい」と考えているのです。日本人から見れば「オレが」「オレが」の、我の強い奴の集まりです。しかしその大半の人間が夢破れて「普通の人々」になるのです。普通になれたらいいけど、普通にもなれずに落ちていったらどうなりますか。

夢や希望だとかも、日本人は元からこんなもんだったのではないかと思います。大体つましい民族なんですから。「バカになった」と嘆く数学の先生を私はきらいではありませんが、この先生が言う「過去の美しかった日本人」にも、アンケートをとったら同じような結果だったのではないかと考えます。正義感はもうちょっと昔の方が強かったかもしれませんが。

話は怪しいほうへ飛びますが、日本がずっと外交に弱いことも、この意識調査結果が現代独特のもので無いことを教えています。米中韓の三国には、リーダーの素質もなければ、それほど勉強もできるとは限らないのに「勉強が出来るようになりたい」「リーダーになりたい」と考えている人間がうじゃうじゃいるわけです。そんな中に挟まれて外交をするのだから日本は大変です。25,7パーセントというやはり最低だった正義感が、役立つのかどうか、そこだけはちょっと気になるところです。
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2005年12月28日

新ゲーム?

算数の話の続きもラジオ体操も更新したいのですが、今日は子供の頭の体操のために、新しく開発した(?)ゲームを紹介。5本の棒とカードを使うゲーム「Dijit」を参考に考えましたが、もしかしたら似たようなゲームは巷でよくやっているかもしれません。(もしあればご一報くださいませ。)


ルールは以下の通り

〜1対1でおこなう場合〜
両者ともマッチ棒を14本ずつ用意。それを7本2セットに分ける。
まず最初に自分の「はじめの形」を7本で作る。ただし以下の条件を守る。

1.7本全部を使う
2.宙ぶらりんに離れている棒があってはならない。
3.棒と棒がくっつく場所は棒の端の部分のみ。
4.くっつく角度は90度もしくは180度のみに限る。

互いに相手の「はじめの形」を見て、相手が使う「おわりの形」を先の4条件で作る。
先攻後攻を決めて、選手は交互に自分の「はじめの形」の中の一本を動かす。置き場所はやはり先の4条件に従う。

目的は自分の「はじめの形」を、相手が作った「おわりの形」に一致させること。より早く完成した方が勝ち。

最初に相手の作った形を見て、できるだけ遠い図形を作ればいいのだけど、7本でも結構難しい。本数を増やしたり、色々バリエーションは広げられると思うので、一度試されてはいかが?

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2005年12月22日

ミカン3個とリンゴ2個

算数教育に関する本を図書館であたっていたら、面白い言葉に出会った。
「どこがわからないの?なんていう問いかけを、低学年の子供にしてはいけません」
確かにそうだ。これは落し物を探すのに、「どこで落とした?」と尋ねるのに似ている。子供は何がわからないのか、自分でわかっていないから苦しんでいるわけだが、親はつい訊いてしまうのだな。

むかし病院で勤めたころの同僚で、将棋が強く理数系の問題にも得意な男がいた。彼は小学校に入ったばかりのとき、算数の問題でどうしても答えられないものがあったと言う。
「ミカン3個とリンゴ2個あわせていくつになりますか?とかいうやつや。ミカン3個はあくまでミカンが3個であり、2個のリンゴと一緒なっても、それは“ミカン3個とリンゴ2個”以外の何物でもないはずや。おかしいと思わんか」

この主張は私も正しいと思う。今ではこの手の無神経な設問が使われることは無いだろう。ただし「くだものはぜんぶでいくつですか」という問い方をしているものは、あるかもしれない。いや、もしかしたら彼が正しく覚えていないだけで、その当時に出された問題にも、実はそういう訊き方がなされていた可能性もある。どちらにせよ、6歳の子供にとって引っかかるときはひっかかる。この場合は「分類」という方法までもってこなければいけなくなるからだ。

ここまで考えてまた思う。もしかしたらたとえミカン3個とミカン2個であっても、これを式にして解けと言われた途端にフリーズしてしまう子供はいるのではないか。かすかな記憶をたどるに、私はその傾向があったような気がするのだ。

先生が実際にミカンを持ってきて目の前で足し算をしてみる。この時に私は何を考えていただろう。
「うん、いまお皿にはミカンが3個あるな。で、先生が大きな声を出しながらまた2個置いたぞ。どれだけありますか?って訊いてる。え〜と数えてみよう。1、2、3、4、5、先生!5つです!」

と、まあこんな感じで結構脳は働いてるわけだけど、次の先生の言葉がぐにょ〜ぅと頭の上を素通りしていく。
「では今やったことを式になおして書いてみましょう」

子供であった私が見たのは「2」ではない。「3」でもない。ましてや「+」などどこにもない。あったのはミカンとお皿である。
「これをどうやってあんなものになおせるというのだろう?」
と、悩みはじめる。

「2」も「3」も習ってはいる。「いち、に、さん」と言いながら、紙に正しく文字を書くことはできる。しかし数字は123ときれいに並んでいるものであって、2があって3があって5があるというのは許せなかったりするのだ。

なんせ昔のことで記憶にあいまいな部分があり、ホントにこういう悩み方をしていたか確かな自信はないのだが、実際今でもこれに近い「引っかかり方」をしている子供はいるんではないだろうか。

最初にあげた本では「数学の世界は数学語が共通語になった世界といえる」と書かれていた。
つまり「みんなが決めた記号のルール」に従わなければ、仲間入りが出来ない世界なのだ。何度か紹介したどんぐり倶楽部考える学習をすすめる会は、いきなりルールを覚えるのではなく、「絵で書く」という方法を先にとることで、力をつけながら世界に入るようすすめている。

ふつう人間が生活する中で、もっとも頼っている感覚が視覚であることからしても、「絵で考える」方法が優れていることは確かだが、事実を「記号」に表すことを教える方法は、他にもたくさんあると思う。現況の子供の学力問題は、このもろもろの記号が事実から分離したまま憶えさせられていることが多い点にある。これは国語の教育にも関連することになりそうだ。
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2005年11月24日

自在感を得させよう

またこちらの記事から。

「子供びいる」というのが評判になっているのは聞いていたが、“子供プロテイン”まで売られているとは知らなかった。スポーツ後の真面目な「プロテイン」より、無邪気な物マネで飲む「びいる」のほうが、まともと感じる人間が多数派であって欲しい。

イチローが小学生時代に大好きな沢庵を食べ過ぎ、全身黄色に染って、ぶっ倒れたことは有名だが、サプリメントやプロテインを摂っていたとは聞いていない。まず、「筋肉をつける」などという意識が、小学生時代にはなかったろう。彼が小学生時代に得た最大の宝は、「筋肉そのもの」より「筋肉の使い方」である。筋力はその過程で自然についてきた。

一流のスポーツマンで筋肉隆々というのは意外に少ない。最もそれっぽい格闘技の世界でも、頂点にいる選手は、見るからに筋肉質というより、一見普通で柔軟な印象を与えるものが多い。(五味隆典とか特にそうだ)

逆にプロ野球の世界で、ヘンな筋肉ばかりつけすぎておかしくなった有名選手の例がある。(そう、あの人です)

プロの話はともかく日本の青少年スポーツの指導には、異常さを感じる話が多い。こちらで言ったような、頭の悪い練習方法を強制するスポーツ指導者がなぜ日本に多いか考えてみた。

1、自分のしてきたこと以上の方法を知らない。無知と新しい知識を取り入れることへの怠慢。
2、取り入れようとしても理解が出来ない。
3、苦しい練習をすれば、心身ともに強くなると本気で思い込んでいる。

表面的にはこういった理由だが、実際はもう少し根が深い。
無知、怠慢、能力不足、思い込み以前に、目的意識の問題がある。
「何のために自分は子供にスポーツを教えているのか?」という問いかけを真面目にしたことが無いのだ。もちろん3のような指導者は、「将来にわたって何事にも強い人間にさせるため」と胸を張って答えるだろう。しかしこれは根拠の無い思い込みである。超人的な猛練習を乗り越えた人間が、意思の弱さから犯罪に手を染めて身を持ち崩すケースもよく聞く。逆もまたしかりで、体育など出来なかった人が、常人の想像を超える意志の強さを見せることも多い。

「強い」というのは「耐えられる」ことをいうのではなく、「適応できる」ことをいうのではないか。スポーツで身につくものには力だけではなく「ワザ」がある。「ワザ」は状況に対する適応方法のことをいう。何か「ワザ」が出来た時、「脳」はその分だけ発達している。体育の指導者は「脳」の指導者であるべきなのだ。

自転車に乗れた瞬間の感動を大人になっても忘れていない人間は幸福だ。人間の幸福とはあの感動の中にある。目で見たこと、頭で思ったことを、自在に実現できたとき感じる快感は高等な動物にしかない。「自在感」という言葉があまり使われないのが残念である。今の教育者は「自由」や「達成感」という言葉をよく使うが、その前にこの「自在感」についてもう少し考えたほうがいい。

そういう意味で言うと、算数も国語も(外国語も)美術も音楽も、この自在感を出来るだけ経験させることが、少なくとも初等教育では最も重要な義務なのではないだろうか。
タグ:自在感
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2005年10月17日

去るべき人々がどれくらいいるのか

数日しか経ってないのに、マスコミではもう忘れられようとしているニュースがある。少年野球の監督が、試合に負けた「ペナルティ」として無意味な猛練習をさせ、一人の中学生を死に至らせたあの事件である。

この監督は「いつもやっている練習だった」と言ってたが、私にはこれが一番恐ろしかった。スポーツ、体育、教育の世界から完全に去るべき人である。

こういう練習を見ながら止められなかった保護者が何人もいたようだ。彼らの心理的な立場が、どのようなものであったかよくわからない。しかし反省するべき点を自らはっきりさせることは、亡くなった少年に対する最低限の義務だ。

近頃は科学的な知識を熱心に取り込んで、良質の練習を施す努力をしている監督、コーチが多くなっている。しかし一方では監督とは文字通り名ばかりのオッサンが、あそこまでではなくともまだいて、親は当惑しながらも口をつぐんで子供をそこに預ける構図が、そこかしこにあるようだ。何もこれは野球だけに限ったことではないし、またスポーツの世界だけの話でもない。勉強の教え間違いで死を招くようなことはないが、良い生き方を遠ざけることはある。対岸の火事と構えていてはいかんのだ。
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2005年09月02日

大人になってからの算数

タイトルの意味はまったく個人的な経験からのもので、大した意味はない。5年ほど前、仕事(東洋医学)の関係で八卦の勉強をしている時に、たまたま気が付いたことである。

何でもいいから適当な式を書く。
例えば8724+563=9287
これをこんな風に分解して計算する。
8+7+2+4+5+6+3=35
さらに35を3+5
で答は8。
右辺は9287なので
9+2+8+7=26
さらに26を2+6にして
で答は8。

何桁のどの数でも整数ならばこのやり方で、右辺左辺が=で結ばれる。
これは足し算引き算だけでなく、掛け算でも成り立つ。面倒だからもう書かないけど、初耳で興味のある方はご自身でお試し下さい。

小中学校で習ったという方はいるだろうか。やっていること自体はとても簡単なので、知っていてもよさそうなものだが、10人くらいの人に聞いたら、みんな「へぇ」の答が返ってきていた。

数学パズル 大人の算数で脳力活性!

傑作! 数学パズル50 (ブルーバックス) [新書] / 小泓 正直 (著); 講談社 (刊)
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掛け算教授法

やはりまだ反復学習・練習の話題から離れられない。

小2の壁と言われる掛け算だが、この教授法に関して私はわからないことがある。
それは「九九は全部暗記すべきか」

たしか戦前の教育法では九九は半分だけ憶えるようになっていたと聞いた。2×3と3×2は同じことなので、3の段は「さざんが九」から始めるのだ。九九を覚えさせる前に掛け算の意味をしっかり教えておきさえすれば、これのほうが合理的な気もするのだがどうなんだろう。全部暗記させるための強い理由が見当たらんのだ。

ご存じの方がいらっしゃいましたら、コメント下さい。

っでもう一つ。

子供が九九でもっとも嫌うのが7の段である。私もそうだった記憶がある。なぜ7の段なのか?
理由
1、奇数の掛け算は末数が奇、偶、奇、偶と交互に変わるため憶えにくい。二年生の子供は奇数偶数という言葉を知っているわけではないが、憶えやすさには影響するだろう。

2、同じ奇数でも3は少ないので、まだ視覚的イメージがつかめる範囲もあり扱いやすい。5は五か十のどちらかで終わる。9はその数から1を引いて十の位に置き、足して9になるように一の位の数を出すという“ウラ技”がある。

3、何となく語呂が悪い。7は関西では「ひち」と読むが、何かいいづらい。「しち」だと四と間違えそうで余計に悪い。また九九は「ににんが四」や「はっぱ六十四」「さぶろく十八」のように、日本人が発音しやすいリズムに合わせているものが多いのに、7の段だけはまったく芸がない。普通の数え方そのままなのだ。

ということで、子供に九九を無駄なく楽に憶えさせる方法を、私は今思いついた。
1、先述したように暗記するのは半分をきっちりするだけ。

2、7は子供が発音しやすい「なな」と呼ぶ。7が出る九九はこうして口にする。
にーなな十四
さんな二十一
しなな二十八
ごなな三十五
ろくな四十二
ななーな四十九
ななや五十六
ななく六十三

どうですか。子供たちがおどけながら「ううっ、死なな28」とか「お父さん42歳。ロクな42歳や」とか口にしてるのが目に浮かぶでしょう!?
…って私だけ?

12歳までに「絶対学力」を育てる学習法―すべての教科に役立つ万能の思考力を伸ばす [単行本(ソフトカバー)] / 糸山 泰造 (著); 草思社 (刊)
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2005年08月24日

反復学習と反復練習

反復学習と反復練習は違う。
百マス計算や一般的な計算ドリルは「反復練習」
何も考えずにやらされる千本ノックや素振り○○回も同様に反復練習である。
素振りをするにしてもコーチの指示を受けながら、フォームを改善しつつ行なうのは反復学習といえる。多少にかかわらず試行錯誤があるものは学習と呼んでいい。

過剰な反復練習、いわゆる「シゴキ」でスポーツ技術が上達することはないわけではない。フラフラになるまで筋肉を酷使することで、やがて結果的には最小限の力による目的動作にたどりつくことがあるからだ。しかしその前にくたばることも多いし、不合理な運動の反復こそはスポーツ傷害の大きな原因になる。

シゴキでしか教えられない指導者は、要するに頭が足らんのだ。シンクロナイズドスイミングのトップ選手を送り続けてきた井村雅代さんは、練習でうまく出来ない選手がいると「この子が出来ないのは自分の伝え方が悪いからだ」と思って、教え方をさがすという。厳しい練習で有名だが、選手以上に自分に厳しい指導者であるからこそ、あれだけの結果が出せたのだろう。

計算ドリルやフラッシュカード、百マス計算は、「脳と指先だけのシゴキ」であり、その効果は定かではない。昨日は脳に悪いことの決定的な根拠は否定したものの、良いという根拠も同様にないわけで、やはり私は不採用を支持する。

昨日の内容の反復になってしまった。次は違う話にしよう。




posted by 院主です at 23:45| 大阪 ☁| Comment(8) | TrackBack(1) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

反復学習 補足

武術には型稽古がある。型は“実践のサンプル”ではない。もしただのモデルであれば、数の有限な型をどれだけ完璧にこなしても「型通りにしか戦えない人」になるだけである。型を通して、普遍的な身体の操法や、さばき方、攻防の拍子を学ぶのである。

習字をさせるのに、様々な字を下手なまま練習させるより、「永」の字一つをきれいに書けるまで練習し続ける方が、同じ時間かけても良い結果を生む。前者は素人同士の乱取りであり、後者はしっかりと目的を持った型稽古と同じである。

計算という型稽古をするなら、何を意識し目的としているのか。それを考えみると、今のところ、やはり百マス計算より三角計算(どんぐり倶楽部の計算練習法)に軍配が上がる気がする。なんぞ、他にいいのはあらんかね。
posted by 院主です at 00:29| 大阪 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

反復学習

正確には反復練習とするべき問題について。

小学生の夏休みの宿題といえば、昔も今も漢字の書き取りと単純な計算ドリルが主で、絵日記や自由研究がついてくるのが相場である。今年は長男に習字を教えると決めたので、漢字の書き取りはその一環としてじっくりとさせているが、計算ドリルは正直どんなものかと思う。

考える力・絶対学力を育てる「どんぐり倶楽部」というサイトがある。子供の勉強の方法について理論を展開している。シュタイナー教育からも影響を受けた(と自ら言っている)ここのメソッドは、暗記能力やその結果である反射的解答力よりも、イメージング能力による思考力の成長に主眼を置いている。したがって一世を風靡した「百マス計算」や早期教育におけるフラッシュカードへの批判は手厳しい。また、ほとんどの小学校で使われている「計算ドリル」「漢字の書き取り」「教科書の本読み」を「お粗末宿題三点セット」と切捨てている。(サイトが最近リニューアルしたようなので、現在そのあたりの記述があるかどうかわからないが、考え方は変わっていないはずだ)

基本的には納得できる考え方である。無味乾燥な計算の高速反復で「前頭葉の血流を上げる」のではなく、文章題を中心にイメージング能力を高めながら、思考力を高めようとする方がいいに決まっている。またこれを書いている先生が、単に「理想的な教育方法を模索している人」ではなく、受験指導のプロとして成果を上げているらしいことも、説得力を持たせている。

しかし本当に計算問題の反復は子供の脳に悪影響を与えるのか?どんぐり倶楽部が説くように、計算ドリルや100マス計算は「止まっている自転車の上で漕いでいるだけ」で「自転車に乗れるようには決してならない」無駄な作業と同じなのか?

トラックバック先のこのページでも多少の議論があったようだが、そのなかで反復と暗記という課題からピアノの練習などについても触れた見解があった。

そんなついでに話が一度大きくそれるけど許して欲しい。

私はピアノを演奏することができない。ピアノどころか、小学生のころはハーモニカさえ一曲も吹けなかった。本当に一曲もである。しかし授業で使う楽器が縦笛(リコーダー)になってからは、何とか人並みについていくことが可能になった。指で穴を塞いだり開けたりして音を変えることが、体で実感できるようになったからだ。ホンの初歩ではあるが、笛が身体の延長になろうとしたのだ。

ハーモニカは今でも吹くことが出来ない。ピアノは子供について一緒にやりかけたがすぐに止めた。左から右にズラリと音が並ぶあの手の機械が、自分の身体の延長になる可能性を、全く感じられないのだ。ドイツの初等教育でピアノを廃止したのは、それこそシュタイナー教育の影響だろうが、私は勝手に正解だと思っている。(ピアノ教室の先生方は気を悪くしないで下さい。難なくピアノを身体化できる子供もいたりするので、だれもやっちゃイカンというのではなく、まあ単なるひがみで…)

33歳から始めた和太鼓は、当初全くやる気なしに誘われて付き合っただけなのに、一回目の練習から夢中になり今でも続けている。

太鼓でも一曲をものにしようと思えば、何度も練習をしなければ出来ない。基本的な地打ち(ドンドコドンドコのようなベースになる単純なリズムを刻むこと)の練習も欠かせない。バチと太鼓を身体の延長にするには、それなりに繰り返しの時間が必要になる。私などは他人の倍以上時間がかかる方だが、それでも2年くらいやっているうちに、「リズムにノッてアドリブで打つ」ぐらいは、低レベルながらもできるようになった。

自転車にまだ乗れない子供は練習時、感覚受容器から受けた情報を大脳で処理して、逐一筋肉に指令を送る。だからみな一度は一心不乱で練習する。繰り返すうちに自転車をうまく乗りこなせるようになると、小脳に運動モデルが記録され、他の考え事をしていても転倒せずに走れるようになる。「道具が身体の一部になる」のはこういうときである。

数字というものも道具の一種と考えれば、高速計算の反復練習をすることがまんざら無益とはいえないかもしれない。ただし数字や演算記号が身体の外延になるには、やはり一度実体を持ったものに転化した形で、脳に触らせる必要はあるだろう。

5+7を問われて5+7=12を「ごたすななわじゅうに」と瞬時に音だけが再生されても意味はない。思考回路を通さない計算能力と呼んでいるのがこれだ。しかし実際のところ、足し算を指やタイルで実体として基本的に認識していれば、「ごたすななわじゅうに」が再生されると同時に、○○○○○+○○○○○ ○○=○○○○○○○○○○ ○○のイメージも発生しているのかもしれない。

反復練習が思考の柔軟性を阻害する決定的な根拠は多分見つかっていないはずだ。

日本は掛け算の暗記を9×9までしかしないのに対し、インドでは恐ろしく大きな数字の組み合わせまで暗記するため、コンピューター関係の人材を多く輩出しているという説がある。

しかしそれでもやっぱり算数の授業時間に「既に出来ることの反復練習」をさせるくらいなら、いわゆる応用問題に力をそそいで欲しいとは思う。

結論を言うと私は結果よりもプロセスの違いで、百マス計算よりも「どんぐり倶楽部」の方が優れていると感じているのだな。なんてことのない落ちだ。考えを整理したくて書いたのだが、長いだけの文になってしまった。
posted by 院主です at 23:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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