2004年08月26日

まだ考えてんのか

多くの人が子供のとき「起きている時が実は夢を見ているときで、夢を見ていると思っている時間が実は現実だったりはしないんだろうか」などと一度は考えたはずだ。
私の場合それより少し後に出てきた疑問の方が大きかった。「人間に自由意志はあるのか」だ。
人間が「自分で考えた」と思い込んでいるのは人間の勝手で、それは自然の成り行きに過ぎないのではないか。手から離したボールの落ちて跳ねる軌跡が加速度や空気抵抗によって決まるのと同じく、人間も生まれて育つ間の外的な環境や偶然の積み重ねによって、次に起きる思考や行動は決定しているのではないかということだ。ボールの軌跡は予測できるが、人間の思考や行動予測不可能なように複雑化しているだけの違いだと。そうでないと誰が説明できるんだろうかと、よく悩んだ。
恋愛をしたり仕事に追われたり結婚して家族を持ったりしている間に、そういうことに脳の糖分を費やすことは稀になっていた。
それが色々とあってここ数年またよく考えるようになっている。

人みな骨になるならば―虚無から始める人生論 [単行本] / 頼藤 和寛 (著); 時事通信社 (刊)

最近読んだ本である。
ご自身が癌の診断を受ける前後に書かれた本で、通俗的な宗教にある救いの概念ー永遠性、正義、因果応報といったものを執拗に眼の前から退けている。
著者は言う。貧乏なのにそれを認めなかったからといって何も変わらない。むしろ貧乏なら貧乏であることを認めたほうがいい。そして貧乏であることと貧乏たらしく生きることは違うのだ、と。
(貧乏とは全ての人間の一生そのものの比喩である。)
これが先の幼稚な問いの完全な答になっているわけではない。(こんな問いに完全な答えは無いともいうことだ)
またすでに故人となられた著者のように死の間際まで「認識の鬼」であり続けれるほど、私を含めて人はみな強いとは思えない。
それでも私はまた何度かこの本を開くだろう。「虚無から始める」と言っても、安っぽいニヒリズムとはまったく違う説得力に満ち満ちているからだ。
posted by 徒手空腹 at 23:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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