2013年02月18日

体罰問題は能力論を中心に論じて欲しい

「桜ノ宮高校の事件以降、世間は体罰を一斉に否定するようになりましたね」

そう言う人がいますが、ちょっと甘いなと思います。

私はテレビを見てないけど、どんな論調かは想像がつくし、体罰必要論を今この時に声高に唱える奴は少ないでしょう。しかし、マスコミから視線を外してよく見れば、一般人の間では考えが特別変わった人は少ないのが現実なはずです。

暴力を受けて自分が成長したと思い込んでいる人は、こんな事件で考えを変えたりはしません。自殺した生徒に問題があるとまず考えます。大津のイジメ事件ではマスコミ全社が決してやらなかった遺族批判みたいなことを、おそらく橋下が嫌いという理由だけで堂々と記事にした雑誌を味方に、「やっぱり先生は悪くないやん」と叫びたい気持ちになっています。ついでに言いますと、連日続々と報道されている暴力的指導者の皆さんは、言葉の上ではどうかはわかりませんが、ホントのところは反省何ぞしとらんのと違いますかな。

「実績もあって感謝もされている自分が何で今さら責められる?」

これはこれで当然の気持ちではないですか。

人は自分を否定されたくありません。特に「あなたは正しくない」と言われることには命がけで抵抗しようとします。年齢を重ねるほど、それは強い。年寄りに多い人種差別、団塊世代に多いアナーキズムや空想的平和主義が、どれだけ馬鹿にされても治らないのを見てもわかります。

暴力を受け成長し、それを肯定的に捉えて、それをまた伝えようとする人たちに「君は正しくない」と言えば言うほど、反発されるだけに終わることが考えられます。

では、どうすればいいのか?

「あなたがたは他の方法を知らなかった」と言うべきなのです。教師は殴らなくても指導できる方法を知らなかった。だから「良い大人」になった生徒もそんな殴る以外の素晴らしい方法を知らずに育った。

倫理の問題を放置しておけというのではありません。もう一つの側面である指導能力の問題の方が、早急に解決する必要もあるからです。能力がついてこなければ、結果を求められる限りどんなに間違っているとわかっていても暴力に頼るようになるからです。

暴力は間違っていると言うのは簡単で、誰にでも出来ますが、暴力より効果的な指導が何か説くのは専門家でも難しい。その難しい事を避けてきたから、こうなった。

一連の体罰問題は暴力をふるった当事者だけに責任があるのではないということになります。「体罰はいけない」とか「時によって必要」とか、ときに平行線になりがちな論議ばかりに陥っていた両側に問題があります。さして世に発言力を持たぬ我々も含めた大人全体の責任であると、新聞に目をやる度に考えざるを得ません。
posted by 院主です at 22:34| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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