2013年01月29日

体罰という言葉は適当か?

桜ノ宮高校の事件以来、教育機関での「体罰」関連ニュースが毎日のように新聞に載りますが、いろんな意味で違和感を感じています。

まず「体罰」という言葉の使い方に最も大きな疑問を感じているのは、私だけではないでしょう。罰という以上、何かしらの悪行なり違法行為、規則違反に対する報いであるべきですが、今回のような事例ではそういうことで暴力を受けたのではありません。

2005年にこんな事件があり、当ブログでも取り上げました。
去るべき人々がどれくらいいるのか
事件の経緯は以下のサイトに詳しくあります。
ある野球少年の熱中症死亡事故事件(京都第一法律事務所)

試合に負けて、なぜペナルティが下りるのか?これに疑問を持たない人間がまだいたことに震撼としたものですが、7年たっても現状はあまり変わってないらしい。

「試合に負けた」のは監督にもコーチにも責任があります。「努力が足らない」とか「キャプテンとして自覚が足らない」という主観も一方的なものである可能性が常にあります。何にせよ不正を働いたわけではない。こういう理由で暴力をふるうのを「体罰」と呼べるのでしょうか?暴力依存的指導または単に暴力依存と呼ぶべきです。体罰と暴力依存を区別しないでごっちゃに語られるため、まともな論議さえできていないような気がします。

私は本来の意味での体罰でも、法律的なことを言えば禁止ということで良いとは思いますが、いかなる場合でも行為者が処罰の対象とされるものとは考えていません。親子間、教師生徒間という人間同士の付き合いの中でどんな状況が生じるか、すべて予想できるものでもなく、程度はあるにしろ何かしらの実力行為が必要とされることもあるでしょう。もちろん罰を受けた人間も、それに納得をしていることが条件です。これに比べると暴力依存的指導は、たとえ生徒が納得していてもするべきではありません。むしろその方が怖い。「あの先生の暴力によって自分は強くなれた」という思い込みが、次の世代に連鎖していくからです。

体罰に線引きが必要という声がありますが、本来の意味での体罰なら、先に述べたように事前に線引きなど出来るわけがありません。起きてしまってからしか、その是非はわからないのです。しかし体罰と暴力依存ははっきり線引きが可能です。暴力依存は限りなく犯罪に近いものと考えた方がいい。

橋下市長の決定には概ね賛成ですが、この人は極めて近い過去に、文脈上で体罰ではなく暴力依存的指導の方をはっきり肯定した珍しい政治家です。一応反省は口にしているようですが、彼にもかなりの責任があるではないでしょうか。

暴力のすべてを否定するのも極論でしょうが、目的さえポジティブなものであれば容易に暴力を肯定する方がはるかに害悪が大きい。これを放置し過ぎてきたということは、市長だけでなく我々大人全員恥じるべきです。

私自身、高校時代に自殺した青年と似たような経験がありました。私の場合は逃亡が出来たけど、彼にはその選択が出来なかった。なぜ出来なかったのか、それを個人の問題だけに決してしてはなりません。

posted by 徒手空腹 at 11:41| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。