2012年08月19日

最近の大雨に関しまして

13日と昨日、大雨や雷でいろんな方に心配を頂きました。私の自宅も治療院も水路の目の前にあります。水位は路面近くまで上がり、今度ばかりはと覚悟しましたが大丈夫でした。お気遣い下さいました方に感謝申し上げますとともに、多少にかかわらず被害のあった町や施設のいち早い復旧をお祈りします。

高槻の大塚地区(淀川寄り=枚方近く)は昔はすぐ洪水になる場所だったそうです。

大雨になると淀川支流の檜尾川があふれて、田畑を台無しにしてしまうことが多々あったのです。なので村に引く水路は、他の地域に比べてとても広く作ってました。給水ではなく排水の役割を重視して、泣く泣くそうしたわけです。

大雨になり支流の上を堰き止めれば、下流で溢れ、そうといって下流で堰き止めれば、上流側で溢れる。上下の村で竹槍持っての諍いにまで発展しかかたっとき、話し合いが行われました。どちらかが被害をこうむった場合は、行政から補償金をいくらかもらおうではないかという交渉が始まったのです。高槻で革新が支持された理由はここにあるとも言われます。左翼的土壌という意味では功罪ありますが、これにより人々の生活は何とか保障され、同時に大規模なバイパス工事も行われました。戦前の大した重機もない中、村総出の人海戦術で作られた水路は「大樋」として町名に残されてます。

その後も堤防の増設や水道施設の充実により、土地は守られ戦後は工場、団地、戸建て宅地、マンション、大規模店舗と時代の流れににあわせて開発が進むようになりました。

自分の今の生活があるのは、まさしくこういう過去の先人の努力の上にあるのだと、感じざるを得ません。不信心者と叱られそうですが、自分の家の先祖とかを考えるよりも、はるかにまざまざと過去と今のつながりというものを、強く心から実感するのです。

時代を一気に遡ると、淀川の洪水は秀吉の政策も関係してきます。当時、天下の枢軸であった大阪城を守るため、左岸(枚方〜大阪市)を強化したという話です。この地区の洪水が多かったのが、そのためかどうかはわかりません。ただ、ある土地に住むことは、常にそこの歴史とどこかで関係していることなのだということは、この年になって初めてわかるようになりました。
タグ:高槻
posted by 院主です at 23:42| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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