2006年01月09日

先に手を出さないで 2

スポーツに限らず、仕事や楽器の演奏などでも、身体を使うことでは、「体で覚えろ」という言葉が良く使われます。営業など対人関係を重視する仕事でも言われることで、もしかしたらそちらの方が実際に身体の技術を用いる現場より、声に出されているかもしれません。しかし今回はそちらの方は置いておき、身体動作に関してのみ、この言葉について考えてみたいと思います。

「体で覚える」というのは、既に「体で覚えた」ことのある人間にとってはよく実感できる状態です。最初は傷だらけになって覚えた自転車やローラースケートを転がしながら、他の考え事に夢中になっている人は、もはや自分の足がペダルやローラーの上にあることを意識していません。それは「体で覚えている」からだと思いたくなります。

そういう経験者にとって「体で覚えろ」は便利な言葉です。「体で覚えている」自分がやって見せたことを、生徒は目で見てマネをして体で再現すれば良いわけです。

しかしこれが成功するのは、ほんの一握りの人たちです。
マネをするというのはとても大変な作業だからです。

まず人が「見た」と思っている目の前の像が、本当に「見えている」かどうか、これが問題です。「目に映った」のと「見た」は違います。「目に映った」映像は視神経を介して、脳の視覚野で認識されます。ここで人は「見た」と感じるわけですが、このプロセスが結構クセモノなのだそうです。たとえば視力が左右で微妙に違っていると、距離感などを正確に把握できなくなります。視力が左右同じでも、神経を通って脳に届くスピードが違っていたりすることもあるといいます。(このケースが多いらしい)

正しく見ることができない。これ一つ目の関門です。

もう一つは「自分の動作が見えない」ことです。鏡を見る方法はありますが、前に置かなければならず、全体をチェックすることはできません。ビデオに撮って見るというのは、なかなか良い方法ですが、これだけをしてもなかなか動作を変えることは難しいものです。ビデオで見ると、お手本の動きと自分の動きが明らかに違うことがわかります。ではどこを変えればいいのか?これが、わからないことが多いのです。「わかった!」と思って改良してみるけど、やっぱり違う、何か違う、そんなこともあります。

たとえば子供が大人のボール投げや太鼓の演奏を見たとき、腕に注意が集まります。サッカーのシュートを見れば、ボールを蹴る瞬間の足先に心を奪われるものです。
何度も見ているうちに「ああ自分は手をもっと高く上げて投げないといけないな。」「太鼓を打つときは肘が曲がっているのか」などと、子供なりに自分の欠点を直そうとするでしょう。また実際に大人が指導する場合も、その傾向があります。私がハンドボールを習ったとき最初に聞いた投法の原則は「上腕と体の間の角度を90度以上にする」というものでしたし、前回の「肘から出せ」という和太鼓の指導の決まり文句も同じです。間違ったことは決していっていませんが、十分でないことが多いのです。

「下手なとき」というのは、体全体の向きや重心の置き方が、間違っているものです。体全部がつながっているのですから、肘の位置を変えれば、他の部分も動きます。そのまま肘の場所だけを変えても、他のところが正しい方向へ行かなければ、やはりしっくりいきません。

「肘から出せ」でうまくいく場合もあります。それは肘や手など末端の位置を変えたら、体全体の運動の様子を変えないとやりにくくてしょうがなくなり、強制的に良い形に変わってしまうこともあるからです。「一言で上手くいく場合」というのはそんな時です。

ホントのことを言うと和太鼓での「肘から出せ」は、その意味でかなり有効ではあります。これは「ラジオ体操化石化プロジェクト」であげた「体を横に曲げる」ことにつながってくるからです。右の肘を90度に曲げたまま体の正面にずいずいと持っていくと、上体が強制的に右へ傾けられることがわかります。ただしこれとて下半身が棒立ちのままでは、いい形にはなりません。下半身の柔らかさが保てる人には「肘から出せ」は有効ですが、そうでない人には難しい注文になります。

手にしても足にしてもこれは文字通り「枝葉末節」の問題です。根元である「腰」が「体の要」です。打つも、投げるも、蹴るも、歩くも、腰からどう動くかがいつも一番大きな問題です。それなのに腰の動きを言葉で表すことが一番難しいのです。だから「体で覚えろ」「見て覚えろ」になってしまいがちなのです。
posted by 徒手空腹 at 19:47| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 運動を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とかく指導者は今自分がしたこと、説明したことを、相手がもしきちんと聞いていたら、再現できると錯覚してしまいがちですね。ここの部分が指導における大きな関門のような気がします。
教育の話になりますが、大学の教員養成課程の段階でこの視点を深めるだけでも、教育はかなり大きく変わっていくと思います。
だけど、その前に教員養成課程の学生が一般の学生と同じような感覚で遊んでいる状況が多く見られることを何とかするのが急務かもしれません。このことは教員の友達にかつて散々聞かされたものですから…。
Posted by こだま at 2006年01月15日 11:41
こだま先生、ありがとうございます。
私もこの文を打ちながら、「算数や国語の
指導で、(腰の動き)にあたるものは何だろう?」と考えていました。

>教育の話になりますが、大学の教員養成課程の段階でこの視点を深めるだけでも、教育はかなり大きく変わっていくと思います。

私は教員養成課程というところは、そういうことを一生懸命やるものだと思っていましたが、現状はまだまだ不十分なんでしょうね。

>その前に教員養成課程の学生が一般の学生と同じような感覚で遊んでいる状況が多く見られることを何とかするのが急務かもしれません。このことは教員の友達にかつて散々聞かされたものですから…。

私も似たような話はちょくちょく聞いておりますが、一般の学生の方も遊びすぎではないかと(^_^;)
Posted by 院主です at 2006年01月15日 22:08
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