2005年12月22日

ミカン3個とリンゴ2個

算数教育に関する本を図書館であたっていたら、面白い言葉に出会った。
「どこがわからないの?なんていう問いかけを、低学年の子供にしてはいけません」
確かにそうだ。これは落し物を探すのに、「どこで落とした?」と尋ねるのに似ている。子供は何がわからないのか、自分でわかっていないから苦しんでいるわけだが、親はつい訊いてしまうのだな。

むかし病院で勤めたころの同僚で、将棋が強く理数系の問題にも得意な男がいた。彼は小学校に入ったばかりのとき、算数の問題でどうしても答えられないものがあったと言う。
「ミカン3個とリンゴ2個あわせていくつになりますか?とかいうやつや。ミカン3個はあくまでミカンが3個であり、2個のリンゴと一緒なっても、それは“ミカン3個とリンゴ2個”以外の何物でもないはずや。おかしいと思わんか」

この主張は私も正しいと思う。今ではこの手の無神経な設問が使われることは無いだろう。ただし「くだものはぜんぶでいくつですか」という問い方をしているものは、あるかもしれない。いや、もしかしたら彼が正しく覚えていないだけで、その当時に出された問題にも、実はそういう訊き方がなされていた可能性もある。どちらにせよ、6歳の子供にとって引っかかるときはひっかかる。この場合は「分類」という方法までもってこなければいけなくなるからだ。

ここまで考えてまた思う。もしかしたらたとえミカン3個とミカン2個であっても、これを式にして解けと言われた途端にフリーズしてしまう子供はいるのではないか。かすかな記憶をたどるに、私はその傾向があったような気がするのだ。

先生が実際にミカンを持ってきて目の前で足し算をしてみる。この時に私は何を考えていただろう。
「うん、いまお皿にはミカンが3個あるな。で、先生が大きな声を出しながらまた2個置いたぞ。どれだけありますか?って訊いてる。え〜と数えてみよう。1、2、3、4、5、先生!5つです!」

と、まあこんな感じで結構脳は働いてるわけだけど、次の先生の言葉がぐにょ〜ぅと頭の上を素通りしていく。
「では今やったことを式になおして書いてみましょう」

子供であった私が見たのは「2」ではない。「3」でもない。ましてや「+」などどこにもない。あったのはミカンとお皿である。
「これをどうやってあんなものになおせるというのだろう?」
と、悩みはじめる。

「2」も「3」も習ってはいる。「いち、に、さん」と言いながら、紙に正しく文字を書くことはできる。しかし数字は123ときれいに並んでいるものであって、2があって3があって5があるというのは許せなかったりするのだ。

なんせ昔のことで記憶にあいまいな部分があり、ホントにこういう悩み方をしていたか確かな自信はないのだが、実際今でもこれに近い「引っかかり方」をしている子供はいるんではないだろうか。

最初にあげた本では「数学の世界は数学語が共通語になった世界といえる」と書かれていた。
つまり「みんなが決めた記号のルール」に従わなければ、仲間入りが出来ない世界なのだ。何度か紹介したどんぐり倶楽部考える学習をすすめる会は、いきなりルールを覚えるのではなく、「絵で書く」という方法を先にとることで、力をつけながら世界に入るようすすめている。

ふつう人間が生活する中で、もっとも頼っている感覚が視覚であることからしても、「絵で考える」方法が優れていることは確かだが、事実を「記号」に表すことを教える方法は、他にもたくさんあると思う。現況の子供の学力問題は、このもろもろの記号が事実から分離したまま憶えさせられていることが多い点にある。これは国語の教育にも関連することになりそうだ。
posted by 徒手空腹 at 01:06| 大阪 ☔| Comment(6) | TrackBack(1) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ミカン3個とリンゴ2個を合わせていいのなら、「ウサギ3羽とカラス2羽を合わせて何羽いるでしょうか」もOKということになりますね。算数では単位が同じならば足していいような指導が多いですから。
だけど、これを変だな?と思う感覚を育てることの方が大切だと思います。
今、自分が置かれている社会状況などがどのようにおかしいのかを感じ取る感覚は、もしかしてこういう些細な問題に対して違和感を感じられるかどうかが根っこになっているのかもしれません。
Posted by こだま at 2005年12月22日 12:05
院主様のブログには初めておじゃまします。その高いご見識はあちこちのコメントで感服しておりました。

今の算数・国語教育全般で根っこに絡む大きな問題点は2つだと思います。
@特に小学校・中学校の教師について言えることですが、教える教師の多くが算数,数学・国語をわかっていないこと。算数や数学では、院主様のおっしゃる例(ミカンとリンゴの足し算)でも明らかなように、これは見方によって5個になったり3個と2個のままであったりします。悩む子の方が「よく考えている」と誉められるべきなのに5個という答えを強制され、「そのように決まっているんだ!」とわけのわからない理屈(?)を強制される。
A思考の出発点は1つ1つの語彙ですが、まず「視覚化」できること。次にそこから「抽象化」できることまで行く必要がありますが、この抽象化は「感覚」を伴わなければ意味がありません。すべての教科で1つ1つの語彙がしっかり把握されることが大切なのに、国語教師だけでなくどの教科の教師も担当する教科に出てくる語彙を子どもにしっかりと把握させることをしていません。どうやら教える側も語彙をしっかりとは把握していないようです。

こだま先生のブログでは、この2点について、鋭く警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。
Posted by Mr. Hot Cake(@考える学習をすすめる会) at 2005年12月22日 13:40
こだま先生ありがとうございます。ウサギとカラスの喩えは笑いましたよ。子供のときに持った“変だな感"は、忘れないように大事にしておくといいですね。

私の子も私が持っている変な所を、大人になってから思い出したりするんだろうなあ、なんて今から考えたりしています。
Posted by 院主です at 2005年12月22日 23:57
Mr Hot Cake様。いらっしゃいませ。(Mrに様はおかしいでしょうか?)

過大な褒め言葉恐れ入ります。そちらの会の先生方のお話はどれも面白く、門外漢ながら色々と考える機会が増えて、心からうれしく思っております。

ご説明いただいた2点は相互に関連したものと考えていいわけですね。子供が悩む疑問というのは、小さい時のものほど難しいような気がします。かなり横道にそれますが、例えば、子供が生まれてはじめてリンゴを見て食べて美味しく感じて、今二つ目を食べたけど不味かった。それで「今食べたのは何だろう」ということがありうるわけです。「最初に食べたのはリンゴ、今のはべぇと吐き出した赤いヘンな丸い物」という分類をその子はするかもしれません。

でも、ほとんどの場合はそうならず「今食べたのは不味いリンゴ」と納得しています。

私を含めて、どうして人間はそんなふうな「分類」ができたのだろうと最近不思議に思うことが多いのです。

算数とは何か、国語とは何か、という問題も、語彙にかんする無理解も、どうも底辺はそのあたりのことが関係しているような気がするのですが、どうでしょうか?
Posted by 院主です at 2005年12月23日 00:23
こんにちは。

私はこの話、ジャズシンガーの綾戸千絵さんの息子さんの体験として聞いたことがあります。彼も頑なに「ミカン3個とリンゴ2個」と答え続け、先生を悩ませたとのこと。綾戸さんが先生と話し、そんな学校に教育は任せられないと、以降はすべて家庭で教育されたようです。

「たす」とはどういうことなのかだけ考えても、「合わせると」の場合と「増えると」の場合がありますね。その意味を子ども一人ひとりが自分なりに理解できていないと、わけも分からず「今はたし算だからたす」ということになりがちです。わり算の意味がちゃんとわかっている子ども、いや大人もどれくらいいることでしょうね。
Posted by at 2005年12月24日 16:56
桐先生、コメントありがとうございます。

そうですか。綾戸千絵さんのところでも同じ「事件」があったのですね。今ではまさか無いと思いますが、どうなのでしょう?

なるほど「合わせると」と「増えると」ですか。「昨日食べたリンゴと、今日食べたリンゴを合わせた」場合は、実体は増えていないけれど、足し算をしなければならないわけですな。文章題なんかでつまずくのは、このへんの理解不足が原因になっていると考えられますか。
Posted by 院主です at 2005年12月24日 23:10
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