2009年09月23日

新しい社会科教育5

私の住むところでは、小中学校に2学期制が導入されてまして、シルバーウィーク最後の今日が、前学期期末試験前日となっております。

そんなこともあり、またちょっと地理の教科書を覗いてました。

世界の気候区分とか、日本の気候、季節とか、そういうところが、試験範囲になっていたんですな。懐かしいです、呪文のように覚えた何たら性気候とか、どこどこ気団とか。

あれはしかし、結構難しい。だって科学の分野ですもん。中学なら理科Uというやつ。科学的な観点からだと、丸暗記でなく考えて納得しながら覚える教科になります。台風がなぜ生まれるか、梅雨はなぜ北海道にないかとか。

まあ、今は社会科と理科の時間で2回やってるようなものですから、その分よく覚えられるはずなんですが…

こういうのが得意な人は少ないですね。私も含めてですが。
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2009年08月10日

新しい社会科教育4

現役の高校の先生にこの社会科新案を話してみました。理系担当で担任は持っていませんが、クラブ活動を通し多くの立派な生徒を社会に送った尊敬できる教育者です。

「たぶん、公民を理解できる年齢を15歳と考えていると思う。あれくらいの年齢の2年差はものすごく大きいからね。」

やっぱりそうかなあ。そんな気もするけど、もっと教え方を変えて、自分の立ち位置から社会に向けて広げるような方法をとれば可能でしょう?っと私は食い下がる。

「それなら力のある教師でないと無理だわ。生徒とそういう話が出来る関係性を持てる人でないとね。地理とかならそうでなくても出来るから、今のやり方なんだと思う」

いやいや、そんな関係性がもてないなら、地理やったって歴史やったって大したことないじゃないですか。

「まあ、そうなんだけど。もしかしたら文科省がわざとわかり難くさせてるのかも知れないしなあ。」

愚民化政策なわけです。私も実はちょっと思ってます。てっ、これは邪推とか下衆の勘繰りであって欲しいけど。

ついでに一つ言い忘れたことをここで。

数学の先生でいい先生というのは、40人に一つ問題を出したら40人全員が同じ解を出させられる先生なわけです。解法とか考え方は別にしても、解は一つです。

では公民なら、これは逆の結果を導く先生がいい先生と言えるのではないかいなと、思うわけです。最低限基本的な現状を理解した上で、40人がすこしずつ違う考えを持つようになって授業成功なんでしょう。民主主義も人権思想も平和主義も、また自由経済も、環境保護も1+1=2のように正しいわけではないことを、教師生徒両者とも前提としてやってくれればなあ、そんな風に思います。
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2009年08月01日

新しい社会科教育3

「地理はひたすら覚える以外に勉強法がない。暗記科目だ。」よく言われます。私も中学、高校ではそう思って毛嫌いしていました。しかし大人になった今はそうでないことがわかっています。国や大陸や島を個別に覚えるのではなく、隣り合う国々の関係性から、自分のいる日本の実情と結びつけることが出来れば、いやでも頭に入ることもあるのです。

そうなるには、まず自分の国のことがわからなければなりません。国の形態、政治制度、産業、経済を一通り知る必要があるでしょう。それなら公民の授業が何より先に来なければいけない。

ただこれを実行するとなると、いろいろ問題が出てくることは予想できます。皆様からコメントにより、ご指摘などが頂ければうれしく思います。
タグ:社会科教育
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新しい社会化教育2

今日、市立図書館に行ったついでに、社会科教育について書かれた本がないか調べてみました。少ないですねえ。司書の方は書庫から古い本を引っ張って下さいましたが、求めているものとは違いました。「社会科教育」でググってみると、真面目な論説はたくさん出てきます。大きく2種類に分かれるようです。体験学習の効果を検証したり、地域の文化や活動を取り入れた学習の様子など、部分的な指導方法についてのものです。もう一つは歴史認識や国家観に見られるイデオロギー絡みの文です。

なぜゆえ「教える順序」という最も大事な点について、もっと議論がなされていないのか不思議です。地理、歴史、公民という流れはそんなにも合理性があるのでしょうか?

地理から始める理由は、青少年の認識能力の成長過程に対する一種の思い込みからきているのではないでしょうか。

一番わかりやすい目に見える世界から始め

時間を軸にしたストーリーを与え

抽象的思考が要る社会構造への把握をうながす。

この方法が向いている生徒がいないとは思いません。しかし決して多数派ではないでしょう。私自身は歴史と公民の授業は好きでしたが、地理の授業は苦痛でした。全てにわたって「半分意味がわからないまま暗記をする」作業が強いられているような気がしていたのです。

中一の時の担任の先生は社会科の先生で、生徒に教えることは好きだったようで、普段はべらんめぇ調なのが、授業になるとアナウンサーのように標準語でとうとうと語り続けました。印象に残っているのは授業の内容ではなく次の言葉です。

「君たちの年齢ならば異性に興味を持つのと同じくらい、社会に対して関心を持ってもいいはずなのだが、なぜそんなに興味が薄いのだ?」
本当に不思議そうに仰ってました。

遠く離れたどこかの国の気候区分や「主な産業」が、隣のクラスにいる髪のきれいな女の子と同じくらい気になるとは、とても思えませんでした。しかし、これが地理の時間でなかったら、あるいは政治や歴史のことを把握した上で習っている地理の時間であれば、もうちょっと共感したかもしれません。

ガキ時代の私の実感はさておき、なぜ地理から入るとまずいのか、次回も話を進めていきます。
タグ:社会科教育
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2009年07月30日

新しい社会科教育1

教育の専門家でもない者が、おいそれと簡単に語るのはおこがましいと認めつつ、ご一考頂きたくここに愚見を提示するものでございます。

中学生になったばかりの長男が、地理の教科書を見ながら夏休みの宿題をやっておりました。我々の中学時代と同じ、一年生の社会は地理なのです。一年で地理、二年で歴史、三年で公民、何十年と変わっていない方式です。

ちらっと覗いた地理の教科書16ページ、「…それでは国とはどのような条件を満たすところなのでしょうか。国は領土・国民・主権(政府)という三つの条件を満たす必要があります。」云々と。

いやあ、これは何とも厳しいですなあ。領土ってどんな風に決まるんでしょうか?国民と国ではどちらが先に「ある」のでしょうか?主権って何ですか?

大人も答えにくそうな質問が子供からたくさん出てきそうです。いや、出てくればいいんだけど、普通はさらっと丸暗記でいっちゃうことが多いんでしょう。どれだけの生徒がこの一文から国というものを把握できるのでしょうか。もちろん、教科書に載っている文は、最低限度のガイドラインであり、ここに先生が指導要領に従い、また先生独自の判断も加えながら指導していくことは承知しています。ただ地理の授業である以上は、こういう説明に多くの時間を割けないことも事実です。

小学校で学ぶ社会科というのが、貧弱すぎることも問題はあるかも知れませんが、社会に対する関心がより高まる思春期に、たくさんの知識を持たせることは理にかなっています。だからこそ、社会科の教育は、体系として覚えやすく、関心を引くように大いに工夫をする必要があるはずです。

生徒が自分の居る現実の環境から出発して、その成立の過程を探求するような形で公民と歴史の一部を教えることは可能かと思います。

中学の社会科は公民から出発し、歴史につなぎ、地理と同時進行する方法をとるべきではないかと考えているのです。なので歴史の教育は現代から過去へ遡って教える方式をとることになります。

あまりに今までと違う方法になってしまいますが、日本のどこかで同じような考えの社会科の先生が、いるんではないかと考えています。もしいらっしゃったらご一報ください。
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2009年05月13日

太鼓を始めた不純な動機

和太鼓をやる人の中には、学校教育以外で楽器を触ったことがない、音楽というものにとんと縁がなかったというタイプが結構いたりします。リズム感にも運動神経にも自信がない。それでなぜやろうと思ったのかわからないけど、とにかくやってみたい。そういう人が多分、他の稽古事より多い気がします。(注、正確な典拠はありません)

かく言う私もその一人だったのですな。でも、なぜやるのかということについては、自分なりにはっきりした理由がありました。

それは「左手がつかえるようになりそうだから。手を使う自分の仕事に役立ちそうだったから」です。かなり不純な動機だといえますが、ほかの事を想像していた皆さん、すみません。

嫁さんが友達の友達に太鼓をやっているからと誘われたのを、渋々ついてきたところ、師匠に長胴の平打ちをさせてもらいました。

丹田を意識して体の中心の前に置き、右も左もぶれることなく一定したリズムを刻む。自分の仕事と同じだ。しかしやってみるとリズムが整わない。左手が思うように動かない。

出来ないから面白い。だから続けよう。これがうまく出来れば、治療技術にも良い影響が出るだろう、とそんなことをすぐに考えていました。

人前で演奏するなんて、当初は考えてもいませんでしたな。結局3ヶ月後には夏祭りに参加して叩いてましたけど、まあひどい出来でした。

年数のわりに今も技術は大したことないけど、だから面白いというのはやっぱりあります。何でもすぐできてしまったら、考える暇がないですからね。
posted by 院主です at 21:58| 大阪 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | 運動を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

筋肉痛(夜間ハイクにサイクリング)

連休中に小豆島を自転車で一周してきました。2日間で100キロメートルの上り坂下り坂と聞いてまして、重くて盗まれにくいのが取り柄のような私の自転車で可能なのかと不安でしたが、今回はまあ楽勝でした。車に乗れない私にとって自転車は普段から大事な交通手段でして、少々のことでは疲れないことを改めて自覚しました。6日から仕事でしたから筋肉痛がないのはうれしい。

長男が昨年の春にはいった(ボーイ)スカウトのおかげで、こういう貴重な体験が出来とります。リーダーのお手伝いということで、今年はサイクリングをしましたが、去年の秋には45キロの夜間ハイクも経験しました。

この時はちょっとつらかった。完歩はしたものの歩いてる途中から股関節の痛みが出てどうにもならなかったからです。

でも翌日にはやっぱり仕事に出ました。筋肉痛はほぼ治ってましたから。「次の日にくる痛み」というのは防ぐことが出来るのですよ。

私は夜間ハイクの実施日の3週間前に練習として半分の距離を歩いて、筋肉痛を先に作っておいたのです。その時はたった22キロで股関節周囲の筋肉はかなり痛みがでて、3日たっても消えないのでマッサージをしてもらい、やっと楽になるという情けない状態。もともと先天性股関節脱臼で生まれてきて、太腿が外旋しにくいところも影響しているやしれません。

でっ本番の日、16キロくらいからちょっと怪しくなり、22キロ歩いた時点では練習と同じくらいの痛みが出ていました。運動直後の筋肉痛というのは一回やそこらの経験では変わらないのですな。もう30キロくらいで痛みがピークに達して、そこからは足をやっとこさ運んでいる感じでした。

でも次の日の筋肉痛は全然違っていたのですよ!22キロで3日間痛んでマッサージまで必要だったのが、45キロでも翌日は仕事をしても全然大丈夫なのですからえらい違いです。

3週間というのはちょっと間が長すぎるかと思ったのですが十分に有効でした。この期間の限界に関しては、個人差や使う筋肉の部位によって変わるかと思います。詳しく調べた資料をどなたかご存知でしょうか?

サイクリングに使う筋肉は脚だけでなく、上半身にかなりの負担がかかります。それだけ仕事量を分散しているのだから脚は歩くより一層楽です。自転車で45キロ歩行と同じくらい疲れるには、ゾッとするくらいこぎ続ける必要がありそうです。
posted by 院主です at 00:09| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 運動を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月19日

覚悟は出来たかって?

死に様占い

占いというより、心理テスト系のお遊び。ブラックだけど。
以下は私の死に様らしいのですが…


乗っていた飛行機が雪山に墜落。わずかな生存者のひとりとして生き長らえる。
 しかし、救助隊の到着が悪天候によって遅れ、貴方たちは飢餓状態に陥る。やがては貴方も力尽き、自分が死んだら死体を食べてくれと言い残して息を引き取る。
 同乗者たちは貴方の遺言に従って生き延び、救助隊に発見される。
死因: 凍死
死因の種類: 不慮の外因死
死亡した場所: 冬の高山地帯
posted by 院主です at 21:13| 大阪 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

忍びがたきこと

NHKの長寿番組となりつつある「忍たま乱太郎」

私も子供が小さいときはよく見たり、本も借りたりしてました。元作者は尼子騒兵衛さんという人ですが、作品がアニメ化されてまもなくのころ、激怒されたことがあるというのを、新聞のインタビュー記事で読んだことがあります。

乱太郎の友達「きり丸」の好きな“小銭”が寛永通宝だったからです。「時は戦国ということになっています。500円玉みたいに子供でもわかるギャグはいいんです。」

昨日テレビでShinobiが放映されていたんで、このことを思い出したんですな。

 奇想天外というより無茶苦茶といったほうがいい忍術と、ありえないストーリーこそはこの作品の持ち味ですから、目くじらを立てるようなものではありません。私が気にくわなかったは一点だけ。物語の中で出てきた手紙が現代仮名遣いであったことです。

これは困る。もうあれだけで台無し。「そんなものなくてもB級以下じゃん」とか言うのは、まあ好き好きの問題です。風太郎ワールドを映像化すれば、あれは結構よく出来ているものと考えてもいい。

変幻自在の殺人糸とか、目を合わしただけで人を殺める術なんていうのは、どこにもない「夢の世界」です。戦国でも江戸時代でも、現代であっても誰も見たことがないんですから、やりたい放題で結構なわけです。

現代仮名遣いは、今の世界に厳然とあって、昔には絶対にない。「伝心の術」が出てきても、電信技術は出てきません。あの手紙は衣装の袖から、腕時計が覗いていたのと同じです。

あれだけのものを作るんですから、やっぱりみんなで話し合ったと思うんですがねえ…どうしてでしょうか。私だったら絶対旧かなにして、その上で達筆すぎて読めない文字にしてもらいますけどなあ。
posted by 院主です at 23:37| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月16日

夏が終わる

夏といえば祭り、祭りといえば太鼓。というベタなつながりで、8月からしばらく人前で打つことが多かったのですが、それも昨日で一段落が着きました。毎年地元の中学校で行われる小さな手作りのコンサートに出演させてもらうのが、このシーズンの最後の仕事になります。

今年は近くの高校の和太鼓部が初めて出演していました。彼らには是非、我々の演奏を見て欲しかったのですが、来てる様子は無かったような?

私も仲間もミスをしたし、技術的に大したことを言えるようなものではないのですが、他の団体のやることを見て何か考える材料にするとか、そういうことがあってもいいのではないかと…まあ、いろいろ時間の都合とかあって来られなかったのかもしれませんが、ちょっとさびしかったですね。

演奏するというのは、聴く人がどう感じるかを常に考えてやるものであることを私は師から学びました。太鼓の打ち方を教える先生はたくさんいますが、「太鼓を人に聞かせられるように自分で考えること」を教えてくれる人はおそらく少ないでしょう。私はその幸運にめぐまれながらも、なかなか前進できずにいます。

一「ミスをせずに打つ」
  ↓
二「自己表現をする」
  ↓
三「観客を魅了する」

こういうのが通常のステップであろうとは思いますが、お金を取る取らないにかかわらず、人様に聞かせる以上は三番目を意識することが当然重要なわけで、一生懸命練習を重ねるのもそのためであり、ノーミスが目的ではありません。

つたないなりにでも、見る人聞く人の立場になって考えつづけようと心がけています。ただ単に「太鼓を上手に打てるようになる」以上の、無形の財産を得ることになると思うからです。
posted by 院主です at 23:00| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする